1誕生

1901年4月29日、東京の青山御所(祖父である明治天皇の治世下)で誕生。昭和天皇は、21歳の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と17歳の皇太子妃節子(後の貞明皇后)の第一皇子であった。明治天皇と柳原愛子の孫にあたる。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)。

2宮中を離れ、川村純義伯爵の家族の養育下に入る

生後70日目、昭和天皇は宮中を離れ、元海軍中将である川村純義伯爵の家族の養育下に入り、実の孫のように育てられた。3歳の時、川村の死去に伴い、昭和天皇と弟の秩父宮雍仁親王は宮中に戻り、最初は静岡県沼津の御用邸へ、その後青山御所へ移った。

3皇太子となる

1912年7月30日に祖父の明治天皇が崩御し、父の嘉仁親王が即位したことで、昭和天皇は皇太子となった。同時に、陸軍少尉および海軍少尉に正式に任官し、大勲位菊花大綬章を授与された。

4正式に皇太子として立太子

1916年11月2日、昭和天皇は正式に皇太子として立太子された。ただし、皇位継承者としての地位を確認するために立太子礼が厳密に必要というわけではなかった。

5陸軍少佐の階級

1920年、昭和天皇は陸軍少佐および海軍少佐に昇進した。

6摂政宮となる

1921年11月29日、精神疾患を患っていた父に代わり、昭和天皇は摂政となった。

7陸軍中佐の階級

1923年、陸軍中佐および海軍中佐に昇進した。

8難波大助による暗殺未遂事件

1923年12月27日、虎ノ門事件において難波大助が昭和天皇の暗殺を企てたが、失敗に終わった。取り調べの中で彼は共産主義者であると主張し処刑されたが、陸軍内の長州派と接触していたのではないかという説もある。

9結婚

1924年1月26日、遠縁にあたる久邇宮良子女王(後の香淳皇后、久邇宮邦彦王の長女)と結婚した。二人の間には二男五女が生まれた。

10陸軍大佐の階級

1925年、陸軍大佐および海軍大佐に昇進した。

11即位

1926年12月25日、父・大正天皇の崩御に伴い、昭和天皇が即位した。皇太子は践祚したと言われた。

12即位の礼

1928年11月、天皇の即位が「即位の礼」(昭和の大礼)として確認された。しかし、この公式行事は、天皇が日本の皇室の宝物であり、何世紀にもわたって受け継がれてきた「三種の神器」を保持していることを公に確認する儀式と表現するのがより正確である。

13満州事変

1931年の満州事変を皮切りに、日本は中国領土を占領し、傀儡政権を樹立した。こうした「侵略は昭和天皇に推奨された」と参謀総長や近衛文麿首相は述べており、昭和天皇は中国への侵攻に対して個人的に反対することはなかった。

14陸軍次官が中国の捕虜に対して「戦争捕虜」という用語を使用しないよう指示

藤原彰によれば、昭和天皇は中国への侵攻を「戦争」ではなく「事変」と位置づける方針を支持した。そのため、この紛争において国際法を遵守する旨の通達を出さなかった(日本が公式に戦争と認めた過去の紛争とは異なる)。8月5日、陸軍次官は支那駐屯軍参謀長に対し、中国の捕虜に対して「戦争捕虜」という用語を使用しないよう指示した。この指示により、中国の捕虜の扱いに関する国際法の制約が取り払われた。吉見義明や松野誠也の研究によれば、天皇は特定の命令(臨参命)を通じて、対中化学兵器の使用も許可していた。

15桜田門事件

1932年1月9日、東京で韓国の独立運動家である李奉昌が投げた手榴弾による暗殺未遂事件(桜田門事件)から、昭和天皇は間一髪で難を逃れた。

16二・二六事件

穏健派の首相暗殺に続き、1936年2月には二・二六事件と呼ばれる軍事クーデター未遂が発生した。これは、天皇の弟の一人である秩父宮雍仁親王を含む多くの高官の同情を得ていた皇道派の陸軍青年将校らによって引き起こされた。この反乱は、国政選挙における軍国主義派の政治的支持の低下がきっかけとなった。クーデターの結果、政府や陸軍の要人が多数殺害された。

17二・二六事件の鎮圧

本庄繁侍従武官長から反乱の報告を受けた天皇は、直ちに鎮圧を命じ、将校らを「暴徒」と呼んだ。その後まもなく、川島義之陸軍大臣に対し、1時間以内に反乱を鎮圧するよう命じ、本庄に対し30分おきに報告するよう求めた。翌日、反乱軍の鎮圧が軍上層部によってほとんど進んでいないことを本庄から聞かされると、天皇は「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたる」と述べた。反乱は2月29日の天皇の命令に従って鎮圧された。

18天皇、武漢侵攻における毒ガスの使用を許可

1938年8月から10月にかけての武漢侵攻中、天皇は、日本による毒ガス使用を非難する国際連盟の5月14日の決議にもかかわらず、375回にわたって毒ガスの使用を許可した。

19日独伊三国同盟

1940年9月27日、表向きは昭和天皇の指導の下、日本はドイツおよびイタリアと日独伊三国同盟を締結し、枢軸国を形成した。

20日本政府の閣議

1941年9月4日、日本政府は、大本営が作成した戦争計画を検討するために閣議を開いた。

21首相、天皇に決定案を提出

9月5日、近衛首相は、正式に実施される御前会議のわずか1日前に、決定案を天皇に非公式に提出した。

22近衛文麿首相が辞任

戦争準備が進む中、近衛文麿首相はますます孤立を深め、10月16日に辞任した。

2311項目の検討

11月2日、東條、杉山、永野は、11項目の検討が徒労に終わったことを天皇に報告した。昭和天皇は開戦を了承し、次いで「開戦の正当性を説明するのか」と尋ねた。対米開戦の決定は、東條英機陸軍大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、東郷茂徳外務大臣によって昭和天皇に承認を求めて提出された。

24永野、天皇に計画を説明

11月3日、永野は真珠湾攻撃の計画を天皇に詳細に説明した。

25昭和天皇、作戦計画を承認

11月5日、昭和天皇は御前会議において対欧米戦争の作戦計画を承認し、月末まで軍部や東條と何度も会合を持った。

26ハル・ノート

1941年11月26日、コーデル・ハル米国務長官は日本大使に対し、フランス領インドシナおよび中国からの全日本軍の完全撤退などを条件とするハル・ノートを提示した。東條英機首相は閣僚に対し、「これは最後通牒である」と述べた。

27御前会議が戦争を承認

12月1日の御前会議において、「対米英蘭戦争」が承認された。

28真珠湾攻撃

1941年12月8日(ハワイ時間12月7日)、日本軍は香港守備隊、真珠湾の米艦隊、フィリピンを同時に攻撃し、マレー侵攻を開始した。

29天皇、杉山に対し4度にわたりバターン攻撃を督促

天皇はいくつかの軍事作戦に大きく介入した。例えば、1月13日、21日、2月9日、26日の4度にわたり、杉山に対し兵力を増強しバターンへの攻撃を開始するよう督促した。

30ミッドウェー海戦

開戦から半年間、主要な戦闘はすべて勝利に終わっていた。日本の進撃は1942年夏のミッドウェー海戦、および8月のガダルカナル島とツラギ島への米軍上陸によって阻止された。

31ソロモン諸島における米軍の進撃

米軍は8月にガダルカナル島とツラギ島に上陸した。

32昭和天皇、米軍パイロットの死刑を命じる勅令に署名

天皇は潜在的な危険を認識し、海軍と陸軍に対しさらなる努力を求めた。1942年9月、昭和天皇は、ドーリットル空襲に参加して捕虜となった米軍パイロットのディーン・E・ホールマーク中尉、ウィリアム・G・ファロー中尉、ハロルド・A・スパッツ伍長の死刑を命じる勅令に署名し、ロバート・J・メダー中尉、チェイス・ニールセン中尉、ロバート・L・ハイト中尉、ジョージ・バー中尉、ジェイコブ・デシェイザー伍長については終身刑に減刑した。

33ソロモン諸島における米軍の進撃に対する天皇の対応

9月11日、天皇は杉山に対し、海軍と協力して軍事準備を改善し、ラバウルで戦う兵士に十分な補給を行うよう命じた。

34米軍による日本本土空襲の影響

1943年から1945年にかけての数年間、引き分けや決定的な敗北に終わった海戦や陸戦の連続は、国民には一連の大勝利として伝えられた。米軍の潜水艦が日本の輸送船を壊滅させ始めたことで、食料、医薬品、燃料が不足し、状況が非常に深刻であることが日本国民に徐々に明らかになっていった。1944年半ばから始まった米軍による日本本土空襲は、終わりのない勝利の物語を嘲笑うかのようなものとなった。

35昭和天皇、戦争の進捗を検討するための一連の個別会見を開始

1945年初頭、レイテ沖海戦の敗北を受けて、昭和天皇は戦争の進捗を検討するため、政府高官との個別会見を開始した。近衛文麿元首相を除く全員が戦争継続を助言した。近衛は戦争での敗北以上に共産主義革命を恐れ、交渉による降伏を強く求めた。

36内閣、交渉による降伏に合意

1945年6月中旬までに、内閣は交渉による降伏の仲介をソ連に依頼することに合意したが、それは予想される連合軍の日本本土侵攻を撃退し、日本の交渉上の立場が改善された後のこととされた。

37天皇との最初の単独謁見

1945年2月、3年ぶりに許された天皇との私的な謁見の際、近衛は昭和天皇に対し、戦争終結に向けた交渉を開始するよう進言した。

38ソ連が日ソ中立条約を更新しない旨を通告

週を追うごとに勝利の可能性は低くなっていった。4月、ソ連は日ソ中立条約を更新しない旨を通告した。日本の同盟国であるドイツは1945年5月初旬に降伏した。

39内閣が「一億玉砕」を決定

6月、内閣は戦争戦略を再評価したが、これまで以上に固い決意で「一億玉砕」を決定した。この戦略は短時間の御前会議で正式に確認されたが、いつものように天皇が発言することはなかった。

40ポツダム宣言

1945年7月26日、連合国は無条件降伏を求めるポツダム宣言を発した。日本政府の最高戦争指導会議(ビッグ・シックス)はその選択肢を検討し、天皇の地位保全を含む1つから4つの条件が合意された場合にのみ受諾するよう天皇に勧告した。天皇は降伏しないことを決定した。

41内閣が「終戦の詔書」を起草

広島と長崎への原爆投下、そしてソ連の対日宣戦布告によりすべてが変わった。8月10日、内閣は、この宣言が天皇の統治権を損なう要求を含んでいないという天皇の意向に従い、「終戦の詔書」を起草した。

42天皇が皇族に降伏の決意を伝える

1945年8月12日、天皇は皇族に降伏の決意を伝えた。叔父の一人である朝香宮鳩彦王は、国体が維持できない場合でも戦争を継続するのかと尋ねた。天皇はただ「もちろんだ」と答えた。

43ポツダム宣言の受諾

8月14日、鈴木内閣はポツダム宣言を受諾したことを連合国に通告した。

44宮城事件

降伏に反対する陸軍の一部が、放送前の8月14日夜にクーデターを企てた。彼らは皇居を占拠したが(宮城事件)、天皇の録音盤は隠され、一晩中守り抜かれた。クーデターは翌朝までに鎮圧され、放送は行われた。

45天皇の降伏演説の録音放送

8月15日、天皇の降伏演説(玉音放送)がラジオで放送された(日本国民が天皇の声をラジオで聞いたのはこれが初めて)。その中で日本がポツダム宣言を受諾したことが発表された。歴史的な放送の中で、天皇は次のように述べた。「しかも敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、頻りに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。尚交戦を継続せんか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。」

46医師団が昭和天皇の十二指腸癌を発見

1987年9月22日、数ヶ月にわたる消化器系の不調の後、天皇は膵臓の手術を受けた。医師団は十二指腸癌であることを発見した。

47天皇が持続的な内出血に苦しむ

手術後数ヶ月間は完全に回復しているように見えた。しかし約1年後の1988年9月19日、天皇は宮中で倒れ、その後数ヶ月間、持続的な内出血に苦しみ、健康状態が悪化した。

48崩御

1989年1月7日午前7時55分、宮内庁の藤森昭一長官が、昭和天皇が午前6時33分に崩御したことを正式に発表し、初めて癌の詳細を明らかにした。

49追号「昭和天皇」の決定

1月7日から1月31日まで、天皇の正式な呼称は「大行天皇」であった。正式な追号である「昭和天皇」は1月13日に決定され、1月31日に海部俊樹内閣総理大臣によって正式に発表された。

50大喪の礼

2月24日、昭和天皇の大喪の礼が執り行われた。先代の天皇とは異なり、厳格な神道形式ではなく、公的な形式で行われた。葬儀には多くの世界の指導者が参列した。昭和天皇は、父である大正天皇の隣、八王子にある武蔵陵墓地に埋葬されている。