リウマチの痛みと結核(喀血が始まっていた)で次第に体が不自由になったイブラーヒームは、湯治のためにイタリアへ送られ、ムハンマド・アリーは1846年にコンスタンティノープルへ旅立った。
そこで彼はスルタンに接近し、自身の懸念を表明して和解し、次のように説明した。「(息子の)イブラーヒームは老いて病弱であり、(孫の)アッバースは怠惰だ。その後は子供たちがエジプトを統治することになるだろう。
彼らはどうやってエジプトを守るというのか?」家族の世襲統治を確保した後、ワリーは1848年まで統治したが、老衰によりこれ以上の統治は不可能となった。
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